山中塗(やまなかぬり)
石川県江沼郡山中町産の漆器。*素地はイタヤやトチ材で挽物が多い。下地はかつては*渋下地だったが、昭和年間に完全に*カゼイン下地に切り替え、堅牢性が高まりかつ能率も増進した。*上塗は*花塗で*溜塗に優れるほか、*黒艶消塗がある。加飾は*消粉蒔絵がよく行われ、*焼錫粉を用いた*友治あげや、消金粉と色粉を用いた*錆絵がある。また特殊なノミを使用して筋目をつけ*摺漆仕上げをした*千筋挽あるいは*糸目挽と称される技法も山中漆器独特のものである。山中漆器は豊富な材料と温泉地の関係上、古くから浴客の土産品として発達したが、天正年間(一五七三ー九二)に越前の挽物師が、山中から五里程隔てた大聖寺川上流の真砂に来て挽物を業としたのに始まるといわれる。元禄年間(一六八八ー一七〇四)には燭台や茶托を産し、宝暦(一七五一ー六四)頃には溜塗の漆器を産するに至った。慶安(一六四八ー五二)には挽物工衰屋平兵衛が糸目挽を考案し、文化年間(一八〇四ー一八)には出倉屋右衛門に招かれた越前丸岡藩の塗師幾造が山中に移住して多くの徒弟を養成した。そして嘉永(一八四八ー五四)に至って木皿や筍弁当などが盛んに作られるようになり、今日の山中漆器の基礎が築かれた。*蒔絵師善介や会津の蒔絵師由蔵が山中に来て、笠屋嘉平、越前屋六右衛門、岡屋善作などが二人に学んだのが起りとされる。文久年間(一八六一ー四)に漆器会所が設けられ、明治十八年漆器組合を結成、明治二十九年には山中村立漆器徒弟学校が設けられ、山中漆器の発展に大きく貢献した。竹内藤三郎により板物漆器が作られ、平野周太郎は朱漆の上に硝酸銀液を用いて濃淡自在な墨絵を描くことを発明した。さらに築城良太郎は糸目挽のほかに稲穂目などの挽方を考案し、かつ淡色で 致ある摺漆法を発明した。昭和二十四年通産省より重要漆工集団地に指定され、昭和四十一年には加賀山中漆器生産団地と山中漆器工場団地が完成し、漆器の大量生産が行われている。