輪島塗(わじまぬり)
石川県輪島市より産する漆器。堅牢性に富み、実用的な料理店や旅館向けの日用飲食器が多い。*素地は板物には能登地方特産のアテを用い、挽物にはケヤキを用いる。特に挽物の場合横挽きでしかも薄く挽くのが輪島の特色である。*下地には付近の小峰山から出る粘土を焼いて作った*輪島地の粉が用いられ、これが輪島塗が丈夫で剝げないといわれる大きな要素の一つとなっている。輪島地の粉は目の粗いものから順に*一辺地用、*二辺地用、*三辺地用に分けられ、これに*生漆と糊を混合して下地として塗られる。このように下地に輪島地の粉だけを用い、他の地方のように*砥の粉を使用しないのも輪島塗の特徴である。*上塗は*花塗が主で、また輪島で考案された変塗に*木目塗がある。なお輪島漆器には普通の*髹漆のほか、*加賀蒔絵を範とする*蒔絵や*沈金彫も盛んに行われている。輪島漆器の起源は応永年間(一三九四ー一四二八)にこの地の重蓮寺に紀州根来寺の僧が来て膳や椀を作ったのが始まりといわれる。また同地の重蔵神社に文明八年(一四七六)の棟札があり、これに記された塗師三郎次郎定吉の名が、文献上の最古の例である。同神社の蔵書によると寛文年間(一六六一ー七三)に輪島地の粉が発見されたと伝えられる。そのほかこの神社は漆器業者との関係が深く、諸国行商の漆器商人に輪島塗の保証として氏子札を与えていたといわれる。沈金彫の技法は享保(一七一六ー三六)頃に、漆器商の三笠屋伊平が松前(北海道)より六部という技術者を連れ帰って硯箱に唐草文様を彫らせ、これを館順助hが学びその子の雅水によって完成されたといわれる。降って天保年間(一八三〇ー四四)に京都の書家貫名海屋が来遊し、業者に「降爾遐福」の一軸を揮毛し、これを機会に同業者が共同して遐福講を結び各得意先の不可侵を規約してその維持発展につとめた。明治十年には遐福講を遐福社と改称し、さらに同三十三年には輪島漆器同業組合を組織した。昭和三年には石川県工業試験場輪島分場を設置し、昭和二十四年通産省より重要漆工集団地に指定された。さらに昭和四十年文部省の助成を得て輪島漆芸技術研究所が設置され、昭和四十六年には県に移管されて国の工芸研究施設として、全国の漆芸家の養成を行うことになった。