静岡漆器(しずおかしっき)
静岡市産の漆器。静岡市は全国屈指の漆器の産地で、分業化と製作期間の短縮によって価格の低廉と大量生産をはかり、殊に輸出漆器として名高い。*素地は杉や桂を用いた板物がほとんどで、*下地は*膠下地のほか近年は合成樹脂下地が使われる。*上塗は*花塗と*蠟色塗の両方行われる。また伝統的髹漆法として*木地蠟塗と卵殻法があるほか、*錆絵、*銀絵、*染箔絵などの加飾法も行われる。*蒔絵は輸出を対象とした*消粉蒔絵が行われる。また昭和のはじめに鳥羽清一によって考案された*金剛石目塗はその堅牢さで知られ、技法は今日も受け継がれている。静岡漆器は今川氏がいた頃からすでに行われていたといわれるが、寛永十一年(一六三四)に徳川家光が賤機山に浅間神社を造営するに当って諸国から漆工を集め、竣工後も永住した者がその技法を伝えて基盤ができ、以後発達したといわれる。享保年間(一七一六ー三六)に吉宗が将軍になると、幕府の商業政策によって特別の庇護を受けて販路を拡張し、明和年間(一七六四ー七二)には*木地蠟塗が起って、広く行われた。文政六年(一八二三)には甲府の画工天嶺が来て蒔絵を作り、次いで弘化年間(一八四四ー八)には漆工山内嘉門が京都に赴いて*青貝塗を学び、製作技術が一大進歩した。また天保十三年(一八四二)五代目土佐屋久七は長崎貿易を企画して輸出漆器の販売に努め、嘉永三年(一八五〇)伊豆下田に外国船が来泊した際には、漆器を試売して好評を博した。そして安政三年(一八五六)の下田開港と安政五年(一八五八)の横浜開港に伴い、以後漆器の輸出が非常に盛んになった。こうして明治時代にはいり輸出が非常に盛んになった。こうして明治時代にはいり輸出はますます活況を呈したが、明治二十年頃になると粗製濫造のため信用を失い輸出が頓挫した。そこで業者は静岡漆器組合を組織して品質の改善に努め、さらに明治三十四年には組合による漆器徒弟学校を設立して、*木地、*髹漆、蒔絵の三科を置き技術者の養成にあたった。また明治三十九年に県立工業試験場を設置して漆工部が置かれ、さらに市立工芸指導所を設置して漆工科を作り、共に業界の指導に当たり、その発達に寄与するところが多い。