柴田是真(しばたぜしん)
文化四年ー明治二十四年(一八〇七ー九一)。宮彫師柴田市五郎の子として江戸両国橋町に生まれた。幼名は亀太郎でのち順蔵と改めた。号は令哉でのち是真と改め、また対 居とも称した。十一歳で古満寛哉について*蒔絵を学び、十六歳で四条派の鈴木南嶺に絵画を学んだ。また二十四歳の時には南嶺の紹介で京都に いて岡本春彦の門に入った。その他歌人の香川景樹や儒家頼山陽とも交遊があった。漆芸においては弘化年間(一八四四ー八)に古来中絶していた*青海波塗を研究して完成させ、紙面には*漆絵を描いたり、*研出蒔絵を施すことを試みた。特に蒔絵と漆絵に独自の妙技を振い、明治漆工界に貢献した。なお彼は画筆や*蒔絵筆から、金銀、赤銅その他の粉類に至るまで自ら作ったといわれる。明治二十三年帝室技芸員。代表作には「*烏鷺蒔絵菓子器」「蓮池鴨蒔絵額」などがある。