鳴子漆器(なるこしっき)
宮城県の鳴子の漆器の起りは詳かではないが寛永(一六二四ー四四)頃にはすでに生産され、文化・文政年間(一八〇四ー三〇)には鳴子温泉の地産品として丸物の紅*溜塗が作られていた。また文政年間に藩主伊藤氏は鳴子に鉄砲組を置いて平素は塗師を内職にさせ、これが鳴子漆器業の大きな基盤となった。明治十九年には会津から漆工を招いて*渋下地の*花塗が行われ、大正十一年には県立鳴子工業講習所を設置して漆工の養成に努めた。さらに昭和二十六年には元東京工業試験所技師の沢口悟一が帰郷して、漆器の改良に努めると共に*龍文塗を考案して新機軸を打ち出した。