蒔絵(まきえ)
漆工芸加飾法の代表的なもので、漆で模様を描いて、漆の乾かないうちに金銀錫粉や色粉を蒔きつけ、文様を表わしたもの。粉の種類から*消粉蒔絵、*平極蒔絵、*本蒔絵、*研出蒔絵、*高蒔絵に分類される。これらの技法が複合して施されたり、また*螺鈿、*平文、*切金、*彩漆などが併用されたりする。さらに蒔絵の技法を*地蒔に応用したものに*平塵、*沃懸地、*平目地、*梨地がある。蒔絵は古くは中国の戦国時代(紀元前四〇三年ー紀元前二二一年)の漆芸品に見られ、わが国では正倉院の*金銀鈿荘唐大刀の鞘に施された*末金鏤と称する技法が、今日の蒔絵の技法である。したがってわが国では奈良時代に行われており、平安時代にはいると平安朝貴族社会に溶け込み、調度品や寺院内部の装飾として発達した。仁和寺の法文冊子箱は延喜十九年(九一九)の作で、現存する金銀研出蒔絵の最古のものとして知られる。平安後期には蒔絵に螺鈿を併用するのが盛んになり、文様もしだいに純日本化した。鎌倉時代には高蒔絵や平蒔絵の技法がおこり、時代の好みで作風も写実的、理知的になった。こうして鎌倉時代で蒔絵の基本技法はほぼ完成し、室町時代にはいると、これがさらに複雑化して*肉合研出蒔絵や*錆上高蒔絵が出てき、意匠は中国の宋や元の影響を受けるようになってくる。また*幸阿弥家や*五十嵐家が*蒔絵師として足利義政に仕え、以後子孫代々将軍家に仕えるようになった。桃山時代には自由な意匠と簡単な技法で大胆な表現が行われるようになり、*高台寺蒔絵がその代表として知られる。桃山末期から江戸初期にかけて活躍した*本阿弥光悦は、古典主義に基づきながらも、材料を大胆かつ適切に用いて斬新な様式を打ち立て、従来の蒔絵を一変させた。しかし江戸時代にはいると、わずかに光悦の影響を受けて独自の様式を展開した*尾形光琳を除けば、全般に細工的、類型的で細かい技法ばかり走り、芸術性は失われるようになった。ただし*印籠蒔絵や、刀の鞘の装飾に蒔絵や各種の漆芸を応用したことは注目される。