京漆器(きょうしっき)
京都市から産する漆器の総称。伝統的な美術*蒔絵のほか、普通の*髹漆によるものも優雅でかつ堅牢であるとして名高い。特に*漆下地の調合において、下地粉の水練りに要する水と同じ量の*生漆を混合するが、これは他の地方の漆下地と比べ生漆の混合量が非常に多い。そのため乾燥不良の嫌いはあるが、堅牢性は高いわけである。そもそもわが国の漆工の創始は奈良であるが、平安遷都後は京都で発達し、大同三年(八〇八)には*漆部司を内匠寮に合弁し、御料の漆器を作らせた。藤原時代になると一般美術と共に髹漆法も進歩し、調度品だけでなく建築物にも応用するようになった。鎌倉に幕府ができると一時衰退したが室町御所の建設と共に再興し、桃山時代には*高台寺蒔絵を代表とする雄大豪放な作風のものが多くなった。江戸時代になると幕府が江戸に移ったため工人達も江戸に赴いて、京都は衰退ぎみとなった。ただし、桃山時代から江戸初期にかけて活躍した*本阿弥光悦は、京都郊外の鷹ヶ峰に芸術村を作り、ここを本拠地として斬新な意匠構成で材料を大胆かつ適切に用いて、従来の蒔絵を一変させる独自の様式を打ち立てた。この作風はその後の*光琳や乾山、宗達など江戸時代の代表的な芸術家に大きな影響を与え、いわゆる*光琳蒔絵として漆芸界を風した。明治に入ると始めは振わなかったが、明治十四年に京都市立美術学校が創立され、漆工科を設けて優秀な技術者を多く輩出した。その後の京漆器発展の貢献者としては西村象彦と三上治三郎がいる。西村は累代蒔絵に従事しながらも、後には漆器商を兼ねて伝統的蒔絵の発達に貢献し、また輸出漆器の改良研究にも努力した。一方三上は高級蒔絵の復興と製作を奨励し、また全国の代表的漆器を京都において集散して、地方産漆器の販路を拡げ、各県の漆工業の発達に寄与した。