河和田漆器(かわたしっき)
かつての福井県河和田村で、現在は鯖江市に編入された鯖江市河和田より産する漆器。近年は越前漆器とも称する。主にトチ、ミズノメサクラなどの木を素材に、竪木挽きにした椀が知られている。竪木挽きの椀は、木目の関係で縁が丈夫なのに対し、底に弱い部分が当るため、底の部分だけ*布着せする。*下地は*渋下地で、*錆(漆に*砥の粉を混ぜたもの)を薄く塗り、その上に*渋に*炭粉を混合した*地炭を、ぬいごぼうけと呼ばれるわらを束ねた*刷毛で塗る。さらに渋に*松煙を混ぜたもので塗り面を何度も研いて固め、その上に*下塗、*中塗を行い*上塗は*花塗とする。なおこうした日用の椀のほか、輪島から学んだ*沈金彫や、*消粉蒔絵、*平極蒔絵などの*蒔絵も行われる。この地における漆塗りの起りは詳かでないが、伝説によると継体天皇(在位五〇七〜五三一)がまだ男大迹皇子のころ越前に赴き、その際に岩間に落ちて欠けた冠を、里人が漆で修繕し御意を得たとも、あるいは皇子として今立郡味真野郷にいた頃に、里人が*黒塗の食器を作って献上したともいわれる。こうして古くは粗雑な椀類の製造に始まったが承平(九三一ー八)頃にはやや進歩して色塗を産し、承久年間(一二一九ー二二)に至ると保護奨励策がとられ、販路も開けてきた。幕末の嘉永年間(一八四八ー五四)には京都の蒔絵師や輪島の沈金師を迎えてその技術を学んだ。明治に入ると北陸線の開通によって、京都や大阪への交通の便がよくなったことも相俟って、漆器が産業として脚光を浴びだし、ことに椀は渋下地によって廉価でかつ丈夫な日常雑器として好評を博し、他の産地を圧倒するまでになった。その後明治三十三年には漆器組合ができ、輪島漆器を模範に品質の改善を計るなどして、今日の盛況を見るに至っている。