平沢漆器(ひらさわしっき)
長野県木曽郡楢川村平沢でいわゆる木曽平沢より産する漆器。桂や朴材の*素地に、同地特産の錆土を用いた堅地の*漆下地を施すのが特色で、宗和膳が名高い。この錆土は近くの山から流れ出た鉄分を含む泥を精製したもので、漆とよく混和し堅牢な*下地の要因となっている。*上塗は*花塗で、加飾は少なく無地の物が多い。慶長年間(一五九六ー一六一五)に漆器製作が始まり、承応(一六五二ー五)頃には漆器製造の家が十数戸を数え、当時の領主山村甚兵衛良豊は、平沢の鎮守諏訪明神の建築や屋根換えなどの名義で檜材を伐採して漆器の原料とすることを許し、漆器業を奨励した。元禄・正徳(一六八八ー一七一六)の頃には平沢漆器の名が世に知られ、寛政年間(一七八九ー一八〇一)にはさらに産額を増して販路を広げた。当時の製品は宗和膳、重箱、曲物類で、*春慶塗や花塗の粗雑なものであったが、明治に入って輪島より漆工を招いて漆下地法を学び、また付近の山より錆土を発見して、品質の向上に努めた。明治二十五年には同業組合を作って粗製の防止をはかり、その後も座卓やサービス盆など時代の要求に応じた製作を行って発展してきた。また昭和二十年頃に手塚庫助が考案したあけび蔓編椽の盆が、近年都会で歓迎されている。さらに近くの奈良井でも漆器の蕎麦道具を産して名高い。奈良井は享保年間(一七一六ー三六)に京都から来た塗師が*髹漆法を伝えたのが漆工芸の始まりで、一時は曲物の本場として知られ、寛保・延享(一七四一ー八)頃には中村恵吉が塗櫛を考案して、しだいに盛んになった。維新後は衰微したが、明治三十五年頃から蕎麦道具や食籠、広蓋等を製作して今日に及んでいる。なお昭和二十四年通産省より楢川村地区全般に対して、重要漆工集団地に指定された。